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くおれ集
福島一彦君の愛妻一子さんが探し出した一冊の冊子、 それは中学での記念誌「CUORE」(クオレ)です。
『2年のクラスマッチ』3年 熊野直
ある人から「中学校の時、何が一番うれしかった」ときかれたら僕は「2年の時のバスケットのクラスマッチ」と絶対に答える。今でも目をとじると、昨日のことのように思い出される。初めに思い出されるのは、坂田先生が「今度のクラスマッチは1組か8組かが優勝だな」と言われておられた。そして、だれでもそう思っていた。でも僕の組の5組も案外いけるだろう」と僕は思っていた。そしていよいよクラスマッチの組み合わせ、5組は最初から8組とだった。僕はいやだなあと思った。そして8組に勝ったとしても、今度は1組とすることになるだろう。だから優勝は無理かなと思った。しかし組み合わせがあった後、僕達は自習の時は、何べんも8組にどうしたら勝てるだろうと、いろいろ紙に相手の攻撃の形と守備の形を書いた。そうしていくうちにも、だんだんクラスマッチが近づいて来た。そして、その夜はあまり眠られなかった。朝早く来て少し練習をした。僕達は2年だから3〜4時間目にある。1時間目と2時間目は、とても勉強する気になれなかった。そして、とうとうベルがなった。いよいよだ。体育の用意をして体育館に行った。心臓がやかましいくらい躍動していた。そして、ついに笛が「ピィー」と鳴った。一瞬体が小さくなったような気がした。ジャンプボールで始まり、前半はただ走って飛んで、また走って、といったぐあいで、なかなか点数が入らず、後半の後3分ぐらいになって、どうやら勝つかもしれないと思った。6対2なんとかして勝ちたかった。だから、時間の過ぎるのがなぜかおそく感じた。そして、試合の終わりの笛、その時「やった」と思った。そしたら急に体がきつくて少し横になっていた。今度はやっぱり1組が勝って、僕たちとだった。でも、調子の波に乗っていたので、1組に勝ち4組に勝ち、ついに『優勝』その時はとてもうれしかった。女子も2位になっていた。前田先生も大声であんまり応援したから、ホームの時はかすれ声だった。そして、この優勝もうれしかったが、次の総合優勝もそれ以上にうれしかった。4組は女子が1位で男子が2位、5組は男子が1位で女子が2位、まったく同じでどうするか先生達も迷っていたが、道徳の時間また試合することになった。今度は点数を多く取った方が勝ちで、何しろ点をできるだけ取ろうと思った。始めは男子から試合があって、僕はカゼをひいたせいもあって、ファール3回して退場、その時の坂田先生がにくらしく見えた。そして、試合はまったく互角の4対4で終わった。内心ガックリきた。それは女子は4組より弱いからだ。しかし、やれるだけはやって見ようと思って。前の試合であまりよくなかった人をひっこめ、そして背の高い女の人と変えた。しかし、試合が始まって3〜4分、4組がまず2点、これで負けたと思ったが、しかし、声を出して注意したかいあって2点、今度は僕達の組が入れた。そして、後半の始めのころ、またあ2点入れて『逆点』。しめた、と思って、前よりいっそう大声で「手をひろげろ」「早くもどれ」などいって、トラの子の2点を死にものぐるいで守らせた。そしてとうとう女子は4組に勝ちそして『総合優勝』、とてもその時はうれしかった。2年5組になってほんとうによかったと思った。以上が全文です。夜も眠れずに朝早く来て練習した気持ち、試合前の心臓の鼓動がこっちにまで伝わってきました。優勝候補を次々に退けたチームワークは大したものでしたね。ただ女子の頑張りがなかったら総合優勝も出来なかったし、まさしくクラス全員のチームワークで勝ち取った勝利ではなかったでしょうか。
総評「3の3福島一彦」
感動の作文ですが多少、誤字と余分な読点が見受けられます。以後注意しましょう。
「大安売り」  小野恵子
私が佐賀へ行ったときのことでした。ちょうど、日祐が火災で大安売出しをしていたので、わたしは好気心で安売があっている所へ行きました。そこは、お客と店員さんの戦争みたいなもので、お客さんに店員さんがうしろからぶつかって、あやまりもしないで「どけ、どけ」と言ってました。一方お客さんの方でも、店員さんに「私が持っていたものをどうしてあの人にやってしまったの」などといって店員さんとはりあっていました。品物は、やはり少しぬれて黒くなっているものばかりでしたが、けんかごしになって品物を取り合っている風景は何ともいえぬいやな風景でした。私の前にいたおばあさんは、品物がたくさん来ると、そこにさっといっては人をおしのけて、買いもしないのに、人がつかんでもっているものをおかまいなしに、さっと自分の場所に集め、満足そうに一つ一つゆっくり見ては「ポイ」と元の場所にかえして、けっきょくは一品も買いませんでした。又、私の横にいた、きれいに着かざった。おとなしそうな女の人が、品物を持って来られると、さっとその場所に行っては、おばさんとはげしくけんかをしていました。又、子どもがこっちの方で、さかんに泣いているのにいつまでたっても安売りの場所から帰ってこないお母さんたちもたくさんいました。わたしはそんな風景を見て、他国の人には、こんな風景は絶対に見せたくないと思いました。
総評 「3の3福島一彦」
子どもの目ってすごいですね。正に「オバタリアン」の世界を垣間見たような、現実味ある文です。あなたも何処かでこんな経験ありませんか?ほらほら、よーく思い出してください。子どもにはちゃーんとそう見られているんですよ。よくテレビでもあるんですが年のころ50過ぎのおばさんたちの争い、いやですね。やっぱり色気が少々なくなるからかな。同窓生諸君我々もその歳になってきました。先輩達の偉業が今日の日本を支えてるといっても過言じゃないと思います。が・・・・、慎むことも大事です。みなさん色気が健康と美貌の根源です。努力努力。
今日は中1から中3の時に寄稿した3冊の「クオレ」を今拝見しております。
おなすのまくより注文のあった小野恵子さんの他、多くの同級生のがありましたので、先ず紹介しましょう。


『NO24号1年時』
「交通事故に思う」1−5 久保千伊子   「うちのチョコ」 1−6 桑原鉄造
「星の女王様」  1−1 中島美代子   「カレーライス」 1−2 石井丈子
「帰ってきてタマ」1−1 大串敦子    「時計」     1−1 岸川洋子
読書感想「わがはいはねこである」1−6 山口泰英
読書感想「わがはいはねこである」1−4 江頭絹代
読書感想「トロッコを読んで」  1−6 吉野克枝
読書感想「トロッコを読んで」  1−3 溝上町子
『NO25号2年時』
「わが家のねこさん」2年 川浪桂子    「陸 上」    2年 土井佳代子
俳句「しも降って風冷たさにねこも泣く」「夕暮れに宿をさがすは赤とんぼ」2年 百武由美子
俳句「しも降れば枝も苦しむあわれさよ」2年 伊藤春美
『NO26号3年時』
「新しい生徒会を作る皆さんへ」生徒会会長 山中清子
「生徒会を考える」   3年 副島京子     「挨拶によって友情が」3年 石井丈子
「給食を食べよう」   3年 大川内友子    「歩道橋を渡ろう」  3年 中島史子
「野球の基本」     3年 田中茂美     「友情を大事にしよう」3年 松瀬満子
「明るい家庭をつくろう」3年 北村由美子    「友情」       3年 松尾弘子
「父のにおい」     3年 石井丈子     「わし」       3年 吉野克枝
「奥平谷キャンプ」   3年 江頭絹代     「二年のクラスマッチ」3年 熊野直
「大安売り」      3年 小野恵子     「私のネコ」     3年 井崎正子
「あだなをつけよう」  3年 浪瀬祐次     「奥平谷キャンプ」  3年 山口広子
「孤独」        3年 百崎紹夫     
まだ詩や短歌などにも同窓生の名前があります。
福島一彦君夫妻の協力を得て掲載しています・・・ご苦労様(全員一同の声)

記憶の中の江北町

ぼた山での「えすかった」出来事     江北町50周年記念版に掲載の1ページ
1969年江北中卒業  3−4 津山雄次 現在:神奈川県相模原市
 江
北町の想い出を書き始めにフッと思い出したのは、ぼた山での出来事です。今は形だけが面影として残っているだけで、 森林に着飾った姿はそこらの山となんら変わりなく見えます。当時の炭坑時代を知らない世代は、あれが何であるのか? 知る由もないでしょう。もっとも、「ぼた山だ」と教えたとしても、その意味さえ分らないかも?・・・あれはたしか中学2年の秋頃、 同級生仲間3人と石炭拾いにぼた山へ出かけました。拾い始めて30分程過ぎた頃にカタカタと音が山頂から聞こえ始めました。 頂上に廃石炭を積んで連なった鉄製のトロッコが見えました。「あー今から、落とすんだな」と分っていましたので、 気に掛けながらも廃石炭が落ちて来ても良い様に落石位置から離れた安全な場所に移動しながら拾い集めをしてました。 その内にガラガラッと落としてる音が耳に入りました。慌てもせずにその方向を見ました。遠くの方から見ていた時は、 さほど感じませんでしたが、目の前で次々にトロッコから石炭やそれに混みれて木が、 ぶつかり合いながら音を立てて転がり落ちて来る固まりを見るとその凄さまじさに恐怖の様な緊張を感じました。 お互い笑って見合いましたが、顔々はこわばっていた様な気がします。その幾つかが、私達の居る方向へ跳んで落ちて来ました、 「まずい」と急いで駆出しましたが足場が岩石や木や砂利石などですから思う様に走れず、拾い集め入れた布袋を そこに投げ捨て滑りながら、つまづきながらも必死で逃げました。もちろん友達の事など気にする余裕も有りません。 ただ、落石が雪崩の様に流れ幅が大きく広がって来ている事は感じました。 やっとぼた石から離れ逃れると「えすかったな」と言いながら、又ここでも顔を見合い笑いました。 ・・(人は恐怖時の緊張や難から逃れ緊張がほぐれた時には意味も無く笑うの者なんですね)3人とも服は石炭でぼた色に汚れ、 手足には大小のすり傷、1人はズボンまで破れてました。怪我した時はヨモギの葉(確か、ふつうの葉と言っていた?)が 良いと言う事を教えられてたので、よく揉んで汁がにじみ出た葉を傷口の上から押え、少し休んでました。 目に写るのは今、落としたばかりの、しめっている石炭の跡がくっきりと扇状に広がっているぼた山の姿です。 連なった鉄製のトロッコは「ざまァ見ろ」と言わんばかりに坑内へ戻って行く後姿が見えました。 暫く休んだので体も冷え寒くなって来ました「冷かな、帰えっか?」と言う言葉に賛同して投げ捨てた後、 ガラで少し埋もれた布袋を引張り上げ、ぼた山を後にしました。 今、当時を思い浮べる中でも「一番えすか思いをした」想い出です。

想い出文集
3年1組
3−1 相原守
「人生わずかに50年」、この50歳に私達はなりました。江北町も昨年で50年、今年は町制施行50周年の記念式も行われる事になっています。又、杵島郡6町でも、合弁の話があってあります。次に皆と会う時は町も変わっている事と思います。私もまだまだ子供に手を焼いておりますが、無理せず、急がぬように、転ばぬように、(誰かの歌?)心がけて生きたいと思っています。ぼちぼちと、肩こり、腰病を意識する今日この頃です。皆も健康に気をつけて下さい。今日は楽しい日を有難う。それでは、また

3−1 藤瀬健二
江北町を卒業して35年が経ちました。私は、白石高に進みサッカーに明け暮れる毎日を過ごし、やっとのおもいで、卒業できました。その後現在の会社「(株)西広(にしこう)」に入社し、宮崎〜長崎〜大阪〜福岡〜熊本〜福岡本社と、転勤を重ねて参りました。現在は、テレビ・ラジオCMの発注業務を担当しております。江北中の思い出は3年1組の前田先生との出会いが一番強烈です。型破りな授業、相手をとことん大切にする態度・・・等々数え上げればキリがありません。その後、担任となった遙山先生の死、そして前田先生も亡くなれました。8月9日当日は、皆さんと、色々語り合うのを楽しみにしています。私のHP: http://www.1.bbig.jp/jh6ich

3−1 五島正明
現在、私は肝臓が悪くて週3回、1日4時間人口透折を15年間行っております。それと、3年前に副甲状腺が悪くなり、摘出、移植の手術を行いました。その手術後、血圧が上がり脳出血をして左半身麻痺になり、3年間リハビリをして、やっと杖無しでゆっくり歩けるようになりました。しかし、左半身は脳出血の後遺症で痺れが取れません。この様な状態なので仕事も無くなりました。平成の15年間は病気との闘いです。人口透折も一生しないといけない、こんな私でも出来る仕事がないか、探しながら生活をしています。

3−1 江口辰巳
湖水に沈みし 我が家の思い出 永遠に


−1 家永悌二
担任の先生が途中で替わられたが、非常に楽しい思い出のある学園生活ができました。現在、和歌山で製鋼関係の仕事について、ガンバッテいます。


3−1 田中教之
一番楽しい時期だったんでしょうね。出来る事だったら少しだけ戻りたいとか・・・


3−1 中島(旧:山口)寿々子
江北小・中は、今から思えば、すごいマンモス校だったんだなと思います。だから、名簿を見ても、アルバムを見ても、わからない人が沢山います。時々実家に帰り周りの変化に驚きますが、景色も変わるように人も変っている事でしょう。同窓会、楽しみです。


3−1 藤井(旧:溝口)すみ江
皆さん、お元気でお過ごしでしょうか?私も、お蔭様で元気にしております。月日が経つのは早いもので、高校を卒業し、大阪へ出て30年が過ぎました。この度、同窓会の連絡を受け、中学当時のアルバムを久しぶりに開いて、皆さんの顔を懐かしく思い出しております。今年は、甥や姪の結婚式、義父の法事等で、3回も佐賀へ帰りますが、残念ながら日程が合わず、同窓会には出席できません。写真は、孫と奈良方面へ出掛けた時のものです。皆さんも同じでしょうか?健康が第一と考える年頃となりましたね。どうぞご自愛くださいね。最後に役員の方々には、ご苦労して頂いてありがとうございました。


3−1 奥村(旧:福岡)千鶴子
私の青春時代は「夢」と共に生きたと言っても過言ではありません。私は、小学校1年生の頃から、一つの言葉を小さな胸に秘めていました。歌ったり、踊ったりすることが大好きだった私の心をいつの間にか「ミュージカル」という言葉が支配していたのです。この私の夢は、誰にも告げることなく私の胸の奥で大きく膨らんでいきました。中学卒業を間近に控えたある日、私は体操部の仲間にそれぞれの夢を発表し合う「夢の発表会」をやらないかと提案しました。そして迎えた卒業式当日、式も終わり誰もいなくなった教室で私達5人は「せーの」で一斉に自分の夢を叫びました。感激した私達は誰からともなく、泣き始め、その後はただ涙、涙・・・静寂の中で泣き声だけが響いていました。しばらくして落ち着きを取り戻した私達はそれから一人づつ、自分の夢をじっくり語り合いました。そして8年後の23才までに夢を果たし、必ず再会しようと固い約束をしたのです。この時の声は今でも録音テープに残っています。その後5人はそれぞれの道を歩み、私も夢に向かって青春を突っ走りました。残念ながら23才の時はまだ夢の途中だったので、5人で会う事はありませんでしたが、それでも夢に向かって頑張っている、小野恵子さん、久保千伊子さんと3人で会いました。19才でプロとしてテレビや舞台に立つようになった私ですが、結局中途半端な形で夢を断念してしまいました。人生の半世紀迎えようとしている今、私はもう一度この夢に向かって情熱の炎を燃え上がらせようとしています。やはり私は一生、「夢見る夢子」なのでしょうか・・・(笑)

3−1 田村(旧:岸川)敏子
卒業して、35年経ちましたね。皆さん、元気で頑張っておられますか?私も元気で(怪我はしましたが)毎日頑張っています。現在は、夫、子供2人、両親の6人家族です。子供も大学を卒業しましたので、これからは、主人と2人で仲良く旅行でもしようと思っています。


3−1 大内(旧:土井)さわ子
幹事の皆様ご苦労様です。同窓会、今からとても楽しみにしております。よろしくお願いいたします・
3年2組
3−2 坂井靖章

35年も経ったのですか、今、しみじみその歳月の短さを味わっているところ・・・。もう残りの人生がはるかに少ないわけで、さて、どうしたものか・・・。ゆっくり思い出作りでも考えて見ますか・・・。


3−2 中尾 隆祐
今思いますと、学校時代は早く大人になりたいと思っておりましたが、月日の経つのは早いものです。あっという間に過ぎ去りました。僕は、身障者で身体も人よりも小さいですけど負けないで頑張ります。


3−2 百武 宏治郎
同窓会をやっていた事全然知りませんでした。高校を卒業してから、小、中学校の同窓には、多分一度も会っていないと思います。(高校卒業後、高校の同窓会に一度出席・白石高校)だからとにかく昔の仲間に会いたいのです

3−2 瀬戸口(旧:武富)洋子
現在、今回開催地の武雄市に住んでいます。中学を卒業して35年、みんないいおじさん、おばさんになっていることでしょう。


3−2 中嶋(旧:大川内)友子
この度は、大変お世話になります。私にとって今回は、生まれ育って初の帰郷となります。九州を家族と離れて依頼、後を振り返らず、前へ前へと自活し、良い人生を送る為必死の35年間でした。ご存知のように不明者になっていたのを皆さんの努力で探し、連絡があった時は大変なびっくりと、懐かしさと、それから次々との電話等で益々気持ちが膨らみ、3月の福山会でも大いに盛り上がり、とっても楽しく、こんな日が来るとは思ってもいませんでした。子供の頃、みんなと遊んだ場所、住んでた新町、通学路、学校、お世話になってた近所の人々どうしているんだろうと今から、思いと期待に胸が熱くなる思いでいます。現在は、両親、主人、子供2人にも恵まれ、何とか幸せな日々を送っています。夏に皆さんと再会できるのを心より楽しみにしております。 どうぞよろしく!!

3−2 川尻(旧:中島)史子
同窓会のご案内ありがとうございました。再会できる喜びに感謝、感謝です。「小学校5・6年5組 高柳泰生先生のクラスの思い出」5年生はS.39東京オリンピックの年、鼓笛隊で聖火リレーを歓迎した国道34号線。タイムカプセル・ポートボールの記念像。我がクラスは5年生の時から毎日、昼休みはドッチボールに明け暮れ、5時間目が始まっても、「もう一試合!」と続けていた。男子の2個ボール顔面狙い撃ちは怖くて、女子は狭いコートを逃げ回ったものです。また、我がクラスは青少年赤十字(JRC)に加入していて、ボランティア活動らしきことをよくさせられていました。早朝の交通整理、運動場のゴミ拾い、日曜日の廃品回収、トレーニングセンターや宿泊訓練への参加など、色々と授業以外の体験をさせられたと思います。私は現在、日赤病院で看護士の仕事をしていますが、今回、思い出を振り返る機会を得、先生や友達、赤十字などふるさとでの多くの出会いが自分のルーツになっている事に気づかされました。高柳先生は若くして他界され無念だったと思いますが、その思いは私達の心に刻み込まれ「6年5組いまだ忘れがたき・・・」の心境です。


3−2 星野(旧:都野川)千恵子
田中君、そして幹事会の方々、それぞれ忙しい内をご苦労様です。去年の暮れのTELから 四月に行われた名古屋の同窓会と、今、私の頭の中は、同窓会モードで一杯です。八月には是非参加せずにはいられない状態です。楽しみにして、日々暮らしています。誘ってくれた皆様、ありがとうございました
3年3組
3−3 井上潔 当時を振り返ってみて
私が江北という町に移り住んだのは3、4歳の時だったと思います。それまでは唐津からバスで1時間弱かかる所にある肥前町というところに住んでいました。この町はものすごく田舎で江北へ来たときは炭坑の社宅がびっしりと軒を連ねているのにまず驚いたものです。それと広々とした田んぼです。それまでは台地の上でしたから段々畑の印象しかなかったのです。それから幼稚園へ通いだし、幼稚園の窓から落ち足の骨にひびがはいり、痛いのを我慢して歩いて帰ったのを覚えています。次に小学校へ通いだしましたが疑似結核で2年間は体育の時間は、いつも見学で週に2,3回病院へいき注射を受けていました。体の弱い子だったのです。今の時代だといじめの対象になっていたかもしれません。その後の小学校生活は平穏無事に過ごし、そうこうしている間に中学へ入学となったのですがそのとき残念に思ったことは、中学の校舎が鉱害で小学校の前に移転していたことです。もうすぐ中学生になったら登校距離が短くなると思っていたものですから・・・・。単純な思いです。中学生になったときは丸坊主。入学前にいやいや散髪にいったものです。中学時代はクラブ活動に明け暮れた印象が強く残っています。そんなにうまくはなれなかったけど、卓球部に入部し傾いた体育館の端で体操部の方々と場所の取り合いをしながら、練習したものです。中学時代は平穏無事とはいかず2度、死にかけています。1度目は急性の盲腸炎、2度目は腸捻転とさんざんでした。高校は家の事情で志望校にはいけず大阪へでてきたのですが、本来は広島商船へ行きたかったのです。大阪の学校の合格が夏休み明けには決まっていたので、皆さんが受験勉強中もクラブ活動に参加していて後輩諸君には迷惑だったかもしれません。この間にも担任だった今は亡き中村先生には期限ぎりぎりまで高校への進学を勧められていましたが、そのまま大阪へ単身でてきてしまいました。先生には本当にお世話をかけたと思います。それと印象に残っているのは小学校、中学校を通じて我々の時代は児童会長、生徒会長が女性だったということです。当時から男性より女性の方がたくましく指導力があったのでしょうかね? 15歳の時に大阪へでてきてそれから30数余年、大阪での暮らしになじんでいます。今では江北にいた時間より大阪での時間が長くなってしまいました。両親も大阪へ出てきてしまい江北へ帰る機会もなくなってしまいました。仕事の関係で近くまでは行くことがあってもなかなか立ち寄ることもできず、現在に至っています。家がなくてもやはり私の故郷は江北なのです。魚釣りをした堤、竹の子や栗を取りに行った山、ソフトボールをしたグランド等々・・・・書き出したらきりがありません。今では様子も違っていると思いますが、いろんな思い出か残っている江北という町。遠くへでてきたものには懐かしい響きの名前であり故郷なのです。齢を重ねるにつれ懐かしさは増すばかりです。合併の話が持ち上がっているみたいですが江北へ残られている同窓生の皆さん、どうか江北という名前が残るようお願いしますよ。


3−3 熊野直
今まで同窓会をなんとしても開こうと思い頑張ってきました。やっとここまで来たのは、同窓生の「江北」に対する熱い思いと思います。「江北」在中の同窓生には色々負担をかけますが、「江北町」在中以外も頑張りますので、8月9日「やってよかった!!」と言える同窓会目指して、共に頑張りましょう。


3−3 武富形之
中学生の頃の皆さんの懐かしい顔が走馬灯の様に思い浮かびます。同級生の皆さんと再会し、語り合えるのを楽しみにしていましたが、同窓会当日が茨城県への出張が予定されており、残念ながらどうしても出席することが出来ません。どうか皆様へくれぐれも宜しくお伝え下さい。


3−3 江越敏高
今回の同窓会は盆前・・・一番休みが取れない時期と重なり残念です。仕事も、プライベートも順調です。


3−3 福島 一彦
この歳になるとつい昔のことが懐かしく思えてきます。酒座ともなると小学校の頃の話で一層盛り上がる。そんなに歳を取った感じはしないんだけど、「昔は」とか口から出るのは年とったせいでしょうか。はがいかばってん時の流れに逆らうことは出来ない。こればかりはどがんしゅんなか。そこで小学校時代から色々思い出を探ってみると6年の時の熊本への修学旅行での事件が思い浮かんできます。男性はほとんど覚えているんじゃないかと思います。そうです、恒例の旅館での枕投げです。朝起きたら中庭の池には枕がごろごろ浮いていて、帰ってから講堂で主犯格は前に立たされ、往復びんた・・・されているのを最後尾から見ていた?。我々のせいで翌年から宿泊は無で日帰りになったとか、後輩たちから「あんた達のせいで」と未だに言われる。修学旅行ではくーわるっことばっかい。中学3年の南九州への修学旅行では朝食の時間に間に合わず、みんなとは別にステージの上で朝食をとることになり、食が進まなかったことを思い出します。中体連の思い出も欠かせないものです。誰がくじを引いたのか練習試合でも勝ったことがない優勝候補の北方と1回戦で戦うことになった。ちょっとだけ弱気になったが、みんなの気合が違っていた。「絶対勝つぞ」負ける事は考えなかった。1回戦の先発を言われた私は、実は一ヶ月ほど前から肩の痛みがあり針治療をしていて、当日も痛みをこらえキャッチボールで肩を慣らして試合に臨んだ。相手は地区内屈指左腕の井出君、さすがに球は速く打ちあぐんで、回はずるずると0対0のまま最終回の裏を迎え江北の攻撃、2アウト、ランナー1塁、バッターはゴリちゃんこと田中茂里君、ガーンと打った瞬間左中間を大きく抜けた。「回れ、回れ」の大声援、1塁ランナーは誰だったのか覚えていないがホームインし、見事なさよなら勝ちだった。・・・が?何を考えたのか打った田中君、試合は終わってるのに3塁を回ってホームへスライディング?・・・しれっ。大舞台で初めて北方に勝った喜びで、みんなの涙が光っていたのを思い出します。


3−3 森田(旧:川浪)桂子
生まれたのは北方。小学校2年の時閉山し、親しい家族や友達と離れ離れになり新しい地、江北町に引越ししました。小さいながらも緊張と不安でいっぱいだったことを覚えています。しかし、多くの友人や地域との関わりの中で、楽しい思い出をたくさん作ることが出来ました。年を重ねるごとに思い出としてだけではなく、生きる力になっていることに感謝しています。


3−3 川本(旧:小野)澄子
中学校の思い出は?と尋ねられると・・・陸上の練習かな・・・
いつも、真夏の一番暑い午後2時から6時までの練習でした。その練習がいやでいやでたまらなくて、一年先輩の井上みっちゃんの指導の下、グランド半分走ってきては顧問の坂田先生が向こうを向いている間にその場から、伊藤晴美さん、松尾千鶴子さん、副島さんも、川浪さんもいたかな?・・・多分4〜5人だったと思うけど、脱走してまずはトイレに隠れて、次に着替えてそっと学校を抜け出して、小学校のプールで遊んでいると坂田先生がプールまで探しに来られて、プールをのぞかれている間、水の中に潜って隠れてはスリルを楽しんだこと。挙句の果てには、校長室に呼び出されて正座、竹刀を持った坂田先生にお説教されたこと。その時の坂田先生の言葉、「何でわかってくれないんだろう。」と言ったら、奥様が、「いつかわかってくれるよ。」と言われたとか。でも、とうとう先生の気持ち、私たちはわからずじまいでした。ごめんなさい。そして私たちの冒険に付き合ってくださって有難うございました。ちなみに私の娘も、小、中、高と陸上部でした。


3−3 金谷(旧:小池)三枝子
久しぶりに友達に会えると楽しみにしています。平成元年の同窓会の時も参加しましたが、子供を連れてきてましたのでゆっくり話が出来なくて残念でした。


3−3 横山(旧:伊藤)春
将来のことなど何も考えず、一生懸命スポーツ(特に陸上)で汗を流し、いい友達も沢山出来て一番楽しかった時期でした。きっと今の粘り強さとか、我慢することとかは、この時期にたくさん蓄えたのだと思います。一番思い出に残っている年令です。


3−3 澁谷傅枝
3児の母として子育てを終え、社会に送り出してしまい、息子達がそれぞれ彼女を連れてくるようになり、今では姑としての心構えを勉強する年になってしまいました。35年ぶりの大同窓会を迎えるに当り、当時を振り返ってみると、想い出いっぱいの中学校生活でした。特に担任の中村先生の想い出が多く、英語の授業を受けたくなくて体育館2階の部室でさぼった事、教室入り口ドアに黒板消しをはさんでいたずらした事、教壇の端と先生の机をぎりぎりにして先生が少しでも机を前に押したら教壇から落ちるようにした事、古川先生のチョーク投げ、上野先生の黒板消し頭打、等々、それでも昔は良かった先生との想い出がいっぱいです。我が子も教職を目指し資格は取れたものの、少子化で希望の職に就けず、会社勤めをしていますが、いずれ希望の職に就けた時こんな事をされたらさぞ、腹を立てるだろうと思います。


3−3 (旧:富永)渡辺敏子
皆さんお元気ですか?九州には昨年三月に、主人と九州1週の旅行に行きました。中学3年の旅行以来で、昔と随分変ったものだと時の流れを感じました。昨年の10月には、父の33回忌で佐賀の方に帰りましたが、江北には墓参りの途中、肥前山口の駅で汽車がしばらく停車し、車窓から見る風景の変りように時を感じました。北海道に来てから今年で30年目になります。作物の収穫で8月にはちょっと無理です。とても残念です。皆さん、楽しんできてください。
3年4組
3−4 津山雄次
おいの生まれは北方、小学1年頃に江北の平山3班に越して来て中学3年卒業すんまで住んどったたい。成績は良か方じゃなかボンクラやった、時いどき授業をサボー事もあったけん・・・こがん言えば、どん位か想像つくやろう?そがんこつ自分から言わんでも、名前で分かるやろう?熊野君が云うごて「おーどか津山」で知れとるかもにゃ?おいは部活や委員会ごたんとは入とらんやった、ブラブラ歩き廻っよる提灯クラブたい(こがんクラブは無かばってん、こがんとはそう言よった)学校帰りもブラブラ道草しいながら帰よった、家に帰ぎんたすぐ夏は鹿ノ口の堤に泳ぎ行って、冬は山ん中に罠ば仕掛けに行きよった、そいけん宿題もあんまいせん方やった(子供に言われんたい)。時いどき帰る途中で、じん車(炭鉱の無賃電車)で大町や三鉱に遊びに行ったり、炭鉱風呂(鉱夫が仕事終わりに入浴)に入ったり、鉄玉ば拾ったりしょった。・・・まだ色々有るばってん、振り返って見いぎんた、今の時代こがん事ば、しようぎんた「不良」だと言わるっやろう?こい事からも分かると思うばってん当時の人ん達ゃ多少大らかな目で見とっておんしゃ、しゃたいね・、そげん感じるたい。そいと、おんちゃん達も、だいだい(誰々)のガキだと、よー分とんしゃって悪さばしようぎんた怒よんしゃた。あいから歳月は過ぎとる今、江北の肥前山口のホームに降りゅう瞬間に思うばってん「故里がここで良かったばい」と言う事たい・・本のごて!


3−4 田中茂美
江北中学校を卒業して早いものでもう35年、神戸に出てから32年になります。江北中学校時代に始めた野球が、野球バカの始まりで48才になるまで神戸市軟式野球協会のA級に所属するチームで現役としてプレーしていました。現在は、次男が少年野球を始めたのをきっかけに始めた少年野球の指導を近所の小学校でしています。女房、子供に言わせるとお父さんの野球バカは死ぬまでなおらないだろうと言うことらしいです。今年、孫が小学校に入学したので野球をさせようと思っているのですが、娘にお父さんのような野球バカにはしたくないと怒られている今日この頃です。啓二君、幹事ご苦労様です、同窓会楽しみにしています


3−4 山田正和
現在、山登りに熱中しております。


3−4 陣内満由
当時の事はよく覚えていません。バスケット部に入っていた事くらいです。


3−4 田中俊礼
同窓生の皆様、お元気ですか?今回の企画を耳にした時、なつかしいみんなの顔を思い出そうとしましたが、なかなか出来ませんでした。それもそのはず、35年の歳月が経っています。今回(初めての参加)出席して、みんなの顔を思い出す企画に感謝しています。ありがとう。会場で会える事を楽しみにしています。(・・・今年50才になるんだな〜〜)


3−4 川本(旧:片渕)光子
子育ても楽になり(20才、25才)頭が暇になってる頃に同窓会の話があり、何十年振りか、「ときめき」を感じました。子供時代を思い出す事もなく、ただ、ひたすらに働いて子育てをしてたのが、今はアルバム見たり、東西、電話したりで忙しく楽しい日々を送っています。幹事の皆さんのお陰です。ありがとうございます。何だか以前と比べたら元気になったようです。同窓会は、「元気になる薬」かも・・・・


3−4 斉藤(旧:土井)節子
江北町役場の封筒に?不思議に思い開封致しましたら、同窓会のお誘いでした。もうびっくり!あの頃の自分は、あまり好きではありませんでした。いやなところばかり思い出してしまい、そんな自分を忘れようとして勉強や習い事を沢山しましたが身についていない自分。しかし、この年になると自分がもったいない!このまま終わるのはもったいない!とパワー全開、又いろいろな勉強を始めました。お友達とも出かけ楽しい老後を?夢見て頑張っています。


3−4 青沼(旧:北村)由美子
小学生時代は、楽しい思い出が多いのに、中学生時代は、だんだんと楽しい思い出がすくなくなっていました。中学卒業と同時に炭鉱閉山となり進学が出来ず、看護の専門学校へ変更しました。でも、そのことが今は、よい結果となりました。看護婦として23年ぶりに現場復帰し、近くの外科医院へ勤めて3年目になります。おかげさまで、両親健在でいるふる里へ、2ヶ月に1度は帰れる幸せを感じています。ふる里っていいなぁ〜〜!!


3−4 山口(旧:藤瀬)妙子
皆様お元気ですか、このお話を聞いた時、なつかしさでいっぱい、当時のことが頭の中を駆け巡りました。一年程前に計画されていることを知り、ぜひ逢いたいという想いにかられました。月日が経つのは早いものですね。小学・中学校と一緒に学び遊びまわた日々、その町も帰省するたびに変っていますね。何か合併で江北町の名が変るらしいですね。変りゆく町をなつかしい友と一緒に語り見たい・・・。健ちゃん(藤瀬健二さん)からも「絶対に来いよ」とお誘いのTELを頂きましたが、義父の初盆に当たりまして多々なすべき事があり、迷いに迷って今、遅れましたがこれをお返事として申し訳ないですけど、出席辞退させて頂きます。 ”ほんと、皆に逢いたかった“
3年5組
3−5 黒木俊二
人生、山あり。谷ありの日々でした。目を閉じれば、少年時代を思い出し、懐かしく思います。できるものなら今一度、なつかしい昔にもどりたい・・・と、思うのは、私一人でしょうか?これからの人生、共に頑張りましょう。私もこれからは、今以上に楽しい人生に変えて生きたいと思います。


3−5 蘭(旧:梅田)初枝
同窓会があると聞き、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちで一杯です。幼かった頃、私は恥ずかしがり屋で、人前ではあまり話の出来る子供ではなく、ちょっと暗い子供だったなぁとおもいます。でも、あの頃に戻りたいと思うのはどうしてでしょうか?やっぱり友達とよく遊び、楽しい思い出があるからだと思います。今は、久保田町に住み、小城の三日月へ仕事に行っています。ここ5年位、胡蝶蘭に囲まれて仕事をしています。また、末娘が今年成人式を迎えました。親として、ちょっとほっとしている現在です。


3−5 梅木(旧:矢坂)五月
今、愛知県の小牧に家族7人で住んでいます。長男と同居で孫が二人います。佐賀には、30年くらい前に行ったきりです。だから、ずいぶん変わっただろうと思います。熊野君や北島君、それに土屋(松尾)さんたちにビデオを送ってもらい、ここどこだっけ?という所もありましたが、懐かしくって、また懐かしくって、この場を借りて三人の方へ、ありがとうございました。


3−5 江頭(旧:竹本)記子
幹事の皆様、ご苦労様です。仕事の都合で、出席できそうもありません。(今の所、何時に仕事を終えることが出来るかどうか、わかりませんので)出来れば、ホテルには行けたら、と思っております。東京、大阪等、遠方から来て下さる方達の為にも、地元の私たちが出席して、会を盛り上げなくてはと思う反面、それが出来そうもない事に、心苦しく思います。短時間でもよければ、顔を出したいと考えておりますので、よろしくお願い致します。


3−5 土屋(旧:松尾)千鶴子
中学の時は、毎日陸上の練習でたいへんだった事が思い出されますが、今はとてもいい想い出になっています。現在は山形に住んで、二男一女の母です。長男は、二年前に結婚し、次男も秋に結婚予定です。長女は、大学四年です。山形は、果物もおいしく、雪が降らなければとてもいい所です。遊びに来て下さい。


3−5 舟越(旧:梶原)美代子
同窓会を計画していただいた方々、ご苦労様です。今回は、都合で出席できず残念に思っております。
3年6組
3−6 武冨秋久 「笑顔」
元手がいらず、しかも利益は莫大、与えても減らず、与えられたものは豊になる。一瞬見せればその記憶は永久に続くことがある。どんな金持ちもこれなしには暮らせない。どんな貧乏人でもこれによって豊かになる。家庭に幸福を、商売に善意をもたらす友情の言葉。疲れたものにとっては休養。失意の人には光明。悲しむ者にとっては太陽。悩める者にとっては自然の解毒剤。買うことも強要することもできない。無償で与えて初めて値打ちが出る笑顔。そんな小学生、中学生の幼かった頃の笑顔のままでずっといたい。


3−6 北島洋一 近況
中学を卒業して、35年が過ぎようとしている。そして節目の歳、50才になる。もう50、まだ50か?どちらもそうであるように思う。これからのことを思うと、まだまだ、楽はできそうにない。早く子供達が一人立ちしてくれれば良いと思っている。夫婦二人で、温泉へでもたまには行きたいものである。でも、今は、そこそこ幸せなのかもしれない。


3−6 川口享三
中学時代の思い出といっても、特に思い出すことは少ない。部活、受験、勉強にしても中途半端で終わったように思う。おとなしくて、
目立つことがない子であったように思う。そんな自分がいやで変わりたかった。高卒後、電気関係の会社に勤めても、自分の一生の仕事とは違うように思い、辞めて今の教職につくことができました。ある同窓会で「小さい時『先生になる』って言っていたよ」と聞かされて、自分でも覚えていないことにびっくりしました。あらためて夢を実現させていたことにおどろき、夢をあきらめなくてよかったと思いました。


3−6 合田勝美
江北中学校を卒業して早35年、その間苦労をし、喜びや悲しみ等色々あった事など、一人一人が持っています。そんな事を話し合ったり、語り合い、楽しみにしています。白髪になったり、髪が薄くなったり、シワがでて、お互い年を取って、誰もが同級生。同じ年の仲間と楽しく、一日を過ごしたいと思っています。35年ぶりに佐賀へ帰って来る仲間達と、一日も早く逢いたいです。


3−6 原口(旧:井崎)正子
中学校時代を振り返ってみると、目的もなく、たいして考えることもせず、ただ漫然と過ごしていたように思います。先生から叱られたこと、黒板消しでのゲンコツなどが、懐かしく思い出されます。齢を重ねてきましたが、気持ちはあの頃とそう変わらない、あまり進歩していない私です。皆さんに会えるのを楽しみにしています。同窓会の幹事さんお疲れ様です。お世話して頂き、有難うございました。


3−6 森永(旧:金原)晶子
江北を離れ26年、早いものです。加古川での生活の方が、生まれ育った江北よりも長くなりました。娘二人も嫁ぎ、孫も三人です。今は夫婦で小さな居酒屋を営んでいます。年に1〜2回は帰佐してますが、江北も随分変わりましたね。近所の友達と、山に野イチゴ採りに行ったり、基地(遊びの)を作ったり、川でタナゴやめだか、二ナ取りしたり、庭先で陣取りやおはじき遊び、物は豊かではなかったけれど、良い環境で育った幸せを感じます。


3−6 浦嶋(旧:岸川)泰子
卒業して、35年の歳月・・・早かったです。その間、結婚、子育て、仕事と忙しい毎日で、過去を振り返る事もなかったような気がします。今回、同窓会の話がきて、アルバムを開いてみると、当然の事ながらみんな若かった・・・。私たちも今年は50才!! まだ若い?子供達も成長し、これからが青春かな?なんて思っています。


3−6 内田(旧:東島)洋子
幹事の皆さん、ご苦労様です。皆さんに会えるのを楽しみにしています。


3−6 井上(旧:橋本 )郁子
早いものですね。私達も50才という年代になりました。私は、地元に住んでいますけど、江北町もずいぶん変わり便利にもなりました。時々、自分が幼い頃に遊んだこと、昔の思い出が、浮かんできます。今回、みなさまとお会いすることで、いろんな、なつかしい話を楽しみに参加させて頂きます。
3年7組
3−7 江口正教
皆さん、お久しぶりです。なかなかお会いする機会が無いですが、懐かしく思っております。今、神奈川で教員をやっていますが、江北出身の方に会う事もほとんどありません。今年、50才になり、子供の頃を思い出しております。


3−7 角安司
誠に残念ですが、今回は参加することが出来ません。皆様の健康と、ご活躍を祈念しております。


3−7 笹野昭八
現在、浜名湖の湖岸に住んでいます。妻と長男、長女の4人家族で、全員健康に気を付けて生活しています。浜名湖は良い所ですよ。


3−7 久保チ伊子
住んでいた頃は、あまり好きでなかった江北も、離れて暮らしてみると、多感な時期を過ごした場所だけに、今は懐かしく、さまざまなシーンが走馬灯のように、脳裏を駆け巡っていきます。転校を繰り返した私にとって、生まれ故郷よりも長く住んだ町でした。今は都会に住み、日々忙殺される生活ですが、今度毎日学校へ行く時通った、あの新屋敷の田園風景が広がる道を、ゆっくり、のんびりと歩いてみたいと思います。35年振りに皆様にお会いできる事、楽しみにしています。


3−7 石橋(旧:上川)美智子
このたびは、同窓会の案内状を送って頂き有難うございました。中学校を卒業して、早、35年も過ぎ去ったんですね。ただ、私の想い出の中には数少なく残っているだけで、寂しい限りですが、このまま自然に忘れていくのだと思います。今、子育てで忙しい日々を、楽しく、のんびりと過ごしておりますので、今回、佐賀までの帰省は取りやめにしたいと思います。皆様、どうぞお元気でお過ごしください。又、この度、渋谷さんや熊野さんにはわざわざ遠方より連絡頂き、びっくりしましたが、意に添えず申し訳ありませんが誠に有難うございました。さようなら


3−7 松永(旧:久保)真智子
身も心もすっかりオバタリアンになりましたが、8月9日だけでも、あの時代にタイムスリップしたいと思っています。楽しみにしています。


3−7 中隈(旧:江頭)貞子
昨年、東京で同窓会があり、武富美良さんの佐賀弁の挨拶が、非常に懐かしく心がなごみ、温かい気持ちになった事を思い出します。今度は沢山の方と佐賀弁で話ができ、私はうれしくてメロメロになりそうです。現在私は、フィットネスインストラクターをし、横浜市内を走り回っています。子供二人も成人し、これからは自分自身の為にも時間を作り、豊かな老後を送るために新しい事を始め、明るく元気で、いつまでも楽しく暮らしていきたいです。


3−7 吉丸まさ子
当時も今も、太目の体型の私ですが、名前を「丸吉」と呼ばれていた事や、多分、2年生の時、掃除したバケツの水を、窓から「バァーッ」と捨てて、窓の下にいた同級生の男子生徒に掛かってしまった想い出があります。あの時は、ごめんなさい。


3−7 百武(旧:江口)八千代
子供の頃は、つらい事ばかりだったけど、今は主人と子供と3人の生活とっても幸せです。色々な事あったし、山あり谷あり、谷ばっかりのときも・・・まぁ人生、色々あるさ〜〜ァ。生きててよかったなぁーっておもわなきゃ。くそ根性出して頑張ったよ〜〜ん。上見たらきりがない、下見てもきりがない・・・。
3年8組
3−8 原田健一
野球もできない様な体力となり、今はソフトボールリーグで頑張っております。なつかしい顔に会えると思うと、今から楽しみにしています。幹事諸氏のご尽力に心から感謝致します。   合掌


3−8 江口政勝
私は、現在三菱住友シリコン(株)旧:九州電子金属k.kに勤務しております。両親と妻、子供(高2、高1、中1)3人の7人家族です。50才の節目に同窓会を企画運営して頂き、感謝しております。体型や顔だちも判りにくくなっている事でしょう・・・でも楽しみに参加させていただきます。当時を振り返れば、何も考えずにサッカーボールを競っていた少年でした。我子もサッカーを通して少しずつ成長してくれればと、親心に思います。又、その頃の友達とこの様に、いずれ親となり、同窓会には参加して欲しいと思います。 以上


3−8 安原(旧:津山)こずえ
現在、主人と24才と21才の男の子と、平凡な生活を送っています。


3−8 北本(旧:稲富)藤子
皆様、35年ぶりのご無沙汰です。今回の同窓会、本当はぜひ出席して皆さんとお会いしたかったのですが、出席出来ず、本当に本当に残念です。申し訳ありません。私も関西に出て来て35年、結婚して早、30年になり、二人の孫のおばあちゃんです。熊野君から電話を頂き、クラスメートの話やなつかしいビデオを送ってもらったりして、なつかしく思い出し、出来るものなら、あの時に戻りたくなります。又今度、いつか会えるのを楽しみに・・・皆様、お体に気をつけて元気でお過ごしください。


3−8 (旧:渕上)小瀬文子
昨年、関東地区での同窓会のお誘いを受けたのですが、出席出来ず残念でした。今回は、地元での開催という事で、たくさんの方とお会いするのを楽しみにしています。


3−8 田渕(旧:北原)和子
元気です!相変わらず色は黒く、京都の町を暇な時は自転車で走り回っています。石橋先生お元気ですか?幹事の皆様、本当にお世話様で有難うございます。


3−8 田中 (旧:藤瀬)敬子
今回やっと、同窓会に参加しようと思い、楽しみにしております。小学校の時のこと色々思い出し、タイムカプセルの事も楽しみです。幹事の方々、大変でしょうがよろしくお願い致します。

3−8 丸山(旧:小野)恵子
当時の私は、今振り返ると、実に恥ずかしくなる程、活発で好奇心旺盛な、女の子でした。大きくなった、平凡な生活はいや・・・有名な歌手になるんだ・・・と夢を追っていました。炭鉱閉山で大阪に来て夢に向かって歩き始めていたのですが、結婚、出産、子育てと変化し、夢からは遠ざかって行きました。それでも35才の時に念願のデビューをしました。現在、カラオケ喫茶“メロディー”という店を経営しながら、第2弾
大阪悲雨”“愛愁”(通信カラオケDAM ユーカラ発信中)を発売 !!なかなかヒットには程遠いのですが、好きな歌を唄える幸福・感謝の気持ちを込めてマイペースで歌っております。   最後にみんな有難う!
3年9組
3−9 山口智啓 中学校時代の思い出
部活動(バスケット)の練習に明け暮れたこと・・・もっと遊びたかった。同じクラスの武富君と毎日将棋をしたこと・・・互角で良い勝負だったかな。好きな女の子がいましたが、告白できなかったこと・・・ウブでした。近況報告 教員生活25年・・・エンジニアを目指していましたが、部活動が縁で教員に。後10年で退職、早く来ないかな。世界中を見て回りたい。   ・ 妻1人、娘1人・・・妻が2人いるようなもので立場は不利。   減量作戦計画中・・・いつも計画倒れ。バスケットをやりすぎて、その反動かも、ビールの誘惑には勝てません。   住 居・・・・・・・佐賀市神園(神野公園の近くなので、時々公園を散歩。)    趣 味・・・・・・・ゴルフ(なかなかうまくなりません)スキー(蔵王はいいね!  温泉と樹氷とゲレンデの広さ)登山(気晴らしに最高!バスケット審判(健康維持のために)


3−9 武富美良
「人生色々」でも「ケセラセラ」を実感している毎日です。


3−9 一戸(旧:谷口)智子
思ってもいなかった同窓会、卒業アルバムを出して見ても、名前と顔が一致しない。35年経った今なら、なおさらの事でしょう。逢ってみたいと思っても、残念ながら都合がつきませんでした。今回、この様に色々準備し、連絡をして下さった事に感謝します。返事をお返しするのが遅くなり、申し訳ありませんでした。同窓会の成功をお祈ります。


3−9 井上(旧:坂井)京子
幹事の皆様、色々と本当にご苦労様です。幹事さん方の名簿を見ているだけで、あの頃の事を思い出し、とても嬉しく思いました。今回は、仕事の都合で出席出来ず、申し訳ありません。


3−9 中林(旧:坂井)好子 熊本にいらっしゃーい!
熊本はよかとこよ。阿蘇の山々の山菜、天草の海の恵みの魚介類、おいしかよ。熊本に来て早25年。腹を肥やし、腕っぷしを強くして、堂々のおばさん道を歩んでいます。 昔、心を寄せたあの人は・・・今どこに?お互い深くは追求しまい。みんなそれぞれの人生を経て一同に会する。これこそ歳を重ねる醍醐味でしょう。たまには過去を振り返り、語り合うのも悪くない。


3−9 梅田(旧:古田)史子
小学校、中学校時代ともに、おぼろげな記憶しかありません。私も少しは変わったと思いますが、皆さんもきっと随分変わられたことでしょうね。今は、三人の子供たちも巣立ち平凡ですが楽しく過ごしています。


3−9 高原(旧:松尾)真由美
中3の時、引っ越しましたが、私にとっては、江北町が思い出のいっぱい詰まった故郷です。最近、あの頃のような子供の心を持った自分を発見することもしばしば。やっぱり年をとるにつれ子供になっていくのでしょうか!! あの頃のように、皆さんにもう一度出会いたいで〜〜す!
転校生
転校 松本(旧:古賀)知子
ちぃちゃん(福岡さん)に電話をいただいた時に、「うわぁーなつかしい、会いたい」と思いましたが、同窓会の案内が送られてよく読んで見ましたら、「何で、私のところまで」という思いで、返事を出せずにおりました。小学校の5年の時に佐賀へ転校し、中学、高校と、佐賀市内、4年間福岡で学生生活を送り、実家の佐賀へ帰り、26才で結婚し、沖縄で4年間、長崎で6年間ののち鹿児島に住んでいます。子供は、21才、19才、17才、10才と3男1女、主人は単身赴任中。現在は、ごくごく普通の母親とおばさんをしております。盆と正月は、実家に帰っております。


転校 岡田 (旧:森)玲子
幹事の方々、ご苦労様です!小学校卒業以来、同級生の皆さんにお会いする機会がなく、今回同窓会のお誘いを頂き、クラスのみんなを思い出せるかしらと、ちょっと不安な気持ちでいます。小学校の頃は、背が高く、色黒で走るのが大好き! 今思えば、ちょっと生意気な女の子だったかな?! つけてくれたあだ名は、“くされ蓮根”(ショック!)下校時、校門で待ち伏せしていじめた男の子達! 出てこ〜〜い!三人の娘の母となり今の私は強いぞ〜〜!現在埼玉県在住、7人家族です。
*想い出文集、クオレを掲載希望の方は書いた文集を津山宛に送って下さい。
*メールでなら、早く載せれますが、FAX、手紙だとパソコンに打ち直す為に時間が掛かります。

思い出集
北方保育園から江北中学卒業まで
当時の印象に残った出来事や行事などを思い浮かべて
北方町編(5歳〜小学1年生の2学期まで)
1、保育園の弁当箱の匂い
  保育園頃の弁当箱はアルミ性でした、ふたには人気キャラクターの絵(絵は忘れました)が描かれていました。
 (当時、テレビの子供人気番組は「豹の目、怪傑ハリマオ、ナショナルキッド、月光仮面・・・」など)
  冬になると弁当が冷えない様に暖房器の上に早く登園した順に並べて暖めていました。保育園の廊下中に弁当の匂いがしました。

2、おばちゃん達のヨイトマケの姿
  土木場で杭を打ち込む姿は、ヨイトマケの唄・・・丸山(三輪)明弘じゃないけど、全く同じで光景です。
  男女の人夫が輪になり綱を引きます。すると結ばれてある真ん中の大木が上に引き上げられ、綱を緩めると大木が落下して、
  埋め込む杭の頭に落ちるのです。当時は、こう言った光景があちらこちらに良く見かけました。
  友達のお母さんが土木現場で働いていたので、友達の用事でついて行き近くで見ましたが、その迫力に圧倒されました。

3、爽快な端午の節句
  子供の日は、町内中が賑います、金太郎や鯉が描かれた鯉のぼりや、五月節句にふさわしく勇ましい絵が描かれた、
  のぼり旗などがそころ狭しと、競うように並べられていました。高さも今と比べて高かった様な気がします?
  上を見上げると風になびきながら音を唸らせている、のぼり旗があちらこちらに見え、もうそれは爽快でした。

4、幽霊が出る噂の柳道
  近くに神社があり、入口に大きな柳が何本か連なり植えて有ります。夜はそこを歩くのが怖かった。
  何故なら女の幽霊が出るともっぱらの噂があったからです。でも自分は1度も見た事はありません
 (勿論、死んでも見たくないです・・・死んだら自分がなったりして?)今も柳の木は、あるのかな?

5、最初で最後に見た宝塚歌劇団(かな?)
  宝塚(今、思えば)だと思う劇団が来ました。自分は「お父さんが、中に居るから」と嘘を言って入り、
  その華麗さにビックリ綺麗な男女姿をした人達が歌い踊り(8・9の日の福岡千鶴子さんのスタイル)子供ながら少し緊張しました。
  それが宝塚の様な劇団を見るのが最初で最後でした。「お父さんが、中に居るから」
  この手は違う言葉のヴァージョンの組合わせで中学校まで使い、
  ただで映画館に何度か入りました(すみません)

6、テレビコマーシャル
  この頃のテレビコマーシャルは「当たり前だのクラッカ」と「セロハンテープ:内容は戦いの最中、
  隠れ樽に敵から弾が打ち込まれ弾穴から水がこぼれだし、それを味方の者がセロハンテープを貼って止める」と言うのがあった。
  その時に見たドラマは風小僧か矢車剣之助だったような?

7、卒園式で残したお道具箱の行方?
  卒園式の日、教室で持物(今で言うと、お道具箱かな?)を持って帰る為、手さげ袋に持物を入れ仕度している時に、
  先生から「全員、園庭に出て下さい」と声が聞こえました。仕度が済んだ園児達はめいめいに園庭に出ます。
  自分は遅く1人だけ取り残されて焦りだし余計上手く入れず(今、思うと袋が小さかったかも)
  仕方なくクレヨンと画用紙を諦め机の中に置いたままにして園庭に出ました。卒園式が終わり家に帰りましたが、
  その後、残した物を如何したか覚えていません。

8、テレビの子供人気番組とラジオから流れる子供
ソング
  夕方になると真空管ラジオから、子供電話相談室の歌が流れていたような(この頃から、この番組があったんだね)
  それと水森亜土の歌(ジャングルがどうのこうのといった歌詞)赤胴鈴之助のテーマーソングが良く聞こえていました。
  叉、この時間にはテレビから「豹の目」の番組が始まるのでテレビが有る友達の家まで見に行きます。
  でも部屋が一杯で入れない時は外庭の垣根や塀によじ登り、そこから見たりしました。
  白黒テレビでしたが今で言うとアンチックなデザインで画面に扉があり全体を布で覆いかぶせていて大事な物の1つでありました。

9、今では残酷、当時は平常
  鶏をじゅぶる(毛や羽をむしり取り解体する事)のを良く手伝わされました。死んだ鶏を(正確に言うと首を絞め殺した鶏・・・残酷です)
  逆さにつるし羽をむしり取る。むしり取った形の良い羽は後で針を羽先に刺して飛ばして遊ぶ。
  うぶ毛の様なのは鶏の頭と足を持ち回しながら焚き火でチリチリと軽く焼き取る。
  その後、逆さにして首を切り暫く逆さのままにして鶏の体の血を抜け落とす。こんな事も当時は当たり前でした、
  ですからところどころに鶏をじゅぶったと思われる跡を(血と羽根が残されて分かります)良く見かけました。
  今では考えられない光景です。その後、解体するのですが、内臓の砂袋(胃の一部)には消化しきれない石や貝殻の粒が時々入っていました。
  でも砂袋は今でも焼き鳥で美味しいです。

10、今と当時の大人の目の違い
   近くに汚い溜池が有りました。(危険防止の為に入れない様に杭で囲ってあります)その池にはザリガニやカニが、
   わんさかいるので壊れた杭と杭の隙間から入りバケツ一杯に捕っていたけど、おんちゃんやおばちゃんから、何も注意された覚えがないような?


11、おもちゃのお金で大目玉
   当時、(幼稚園児だったかな?)おばあちゃんが店番してたので、弟におもちゃの紙のお札(今思えば見るからにばればれの100円札)を
   渡し「目が悪かけん分からんけん、お菓子(ヒモで吊り上げる当たりくじのあるお菓子)を買ってこい」と言って無理やり買いに行かせました。
   待っていると弟が店のおばあちゃんに連れられ戻って来ました。ここで怒られ後でもこの事が親にばれてしまい叉、凄く怒られました。

12、待ち遠しかった紙芝居屋さん
   正月は空地に紙芝居屋さんが3〜4台来ます。それぞれ物語が違う紙芝居をするので、どの紙芝居を見ようか迷ってしまいます。
   確かその時、見た物語のタイトルは「影の無いとり子、黒面鬼、まぼろし探偵」だった様な気がします。1個五円で買える平べったいお菓子があります。
   そのお菓子を買って、真ん中に小銭が通せるくらいの穴を抉りあけます、そして五円でも10円でもお金の玉がそこをくぐりぬければ、
   それと同等なお金を貰うか、お菓子を買えるですが、たいていは、いつもその前に割れてしまいます。

13、運動会はお祭りと同じ
   当時、保育園や小学校の運動会では、運動場の隅々や学校門から道先一杯に出店が立ち並びます。昼休みになると生徒達は買いに行きます。
   その日は近所からも人が集まり、家族や生徒などもあって運動会が終了しても1日中お祭り見たいに賑っていました。・・・当時は運動会も大イベントです。

14、餅つき大会とおんちゃん達の流し呑み大会
   正月と言えば1つに餅つきがあります。これも当時は大イベントで広場に近所中から持ち寄った臼が5〜6台は並べられ餅つき大会をします。
  (別に大会ではないですが、今で見ると似た様なもの)それにあわせて蒸す為の、かまども並びます。かまどや餅臼からの湯気でもち米の匂いが広場中を覆います。
   大人達に雑ざり手伝いをして餅を丸めるのが面白かった。その時に大人(時におんちゃん達)が大きな餅を手で掴み小皿の醤油に、
   その餅をチョコンとつけ一気に口に流し込む丸呑み大会には歓声が上がり活気がありました。
   ・・・今書いてる最中にもその光景が浮かび、その時の歓声が聞こえそうです。

15、学校の身体検査は嫌だった
   小学1年の身体検査(当時はそう読んでいました)の時、さるまた(ブリーフ)は中学卒業するまで我家は兄弟共用で使用していて少々破けていても着よう
  (今はしないけど)していました。今日がその日とも忘れて保健室へ生徒並んで歩いる時に、さるまたが破けていた事に気が付きました。
   列から離れて隠れていたら担任(女の先生)が来ました。泣きながら訳を話すと笑って「ズボンのままで良いよ」と言ってくれました。
   保健室に入ると自分達の組は終わっていて自分だけだったのでホっとしました。・・・有り難う先生

16、学校で男の子で流行った土玉遊び
   当時(小1年の時)、学校内で流行っていた遊びに粘土状の様な土が学校にあって、それを適当なサイズに硬く丸めて手の平にのせ、
   他の土を丸めたそれにかけ、まぶしたりして磨くのです。そうすると丸めた粘土状の土が黒光りして、また一層硬くなるのです。
   目上辺りから落としても割れない程硬くなります。それをお互いの丸めた物に、あてっこして競うのです。そして更に割れない様に硬い丸形を作るのです。

17、学校で男の子の遊びは小石磨き
   もう1つ当時(1年生の時)学校で流行っていた遊びに、教室からの歩いた通り道の校庭に入る手前に、通常時は水位が10センチ程の小堀の川がありました。
   休み時間になると男の子達は、そこに入り適当な気に入った平べったい小石を見つけて、その小石を川の石に適当な力加減をしながら擦りつけ磨くのです。 
   そして形良い平べったい石に整えるのです。これはお互いが競うのは無く1つ作ったら、また1つ作るだけの遊びです。

18、大雨で押入れの上で避難
   ある日、台風の日に夜中に起こされました。見ると畳の近くまで水位が上がっていたので急いで押入れの上に家族が非難しました。
   最終的には押入れの上から手を伸ばせば水面に届くまでも、つかっていました(浸水)。水が引くまで押入れの上から降りられず次の日の昼まで非難したような?
   ・・・多分満潮と重なり六角川の水かさが増えて流れだしたかも。

19、馬鹿な泥棒と父ちゃん
   家族で思い出した出来事がまた1つあります。夜中に父が大声で騒いでいたので、目を覚ますと猟銃(ばら銃=散乱銃とも言う)を
   持って来て薬きょう(弾)を詰めながら、ある男に叫んでいました。男はラジオを盗もうとしてる時に父に見つかりボーとして立っていましたが、
   父の行動にビックリしてあわてて逃げていきました。(馬鹿な泥棒です)この時代はラジオは真空管で木目調が多かったのですが
   我家のは金属製で父が作った手製のラジオです。マイクとスピーカーの差込穴が付いた今で言うアンプ付きラジオです
   ・・・平山の盆踊りに何度か持って行き活躍しました。

20、忘れられない母ちゃんの背中
   夜中に熱をだして具合が悪い時に母ちゃんが病院までおんぶしてつれて行ってくれました。その時の母ちゃんの背中のぬくもりは忘れられません。
   映画で見たような光景です。今は、自家用車やタクシーまたは救急車ですが当時は長い道のりをおんぶして行き帰りをしてたのです。
   ・・・・母ちゃんの有難みは今も脳裏に焼き付いています。

21、大きな不思議なからくり人形の行列
   今に思うと炭鉱のメーデーだったのかも知れません?流れる人並みに混じって、でかい顔していて目や口や眉毛などをピクピク動かせている
   不思議なハリコ人形が何体か連なって歩いていました。友達とその後から面白くついて歩いて行くと、暫くして一休みをしたので、
   おんちゃんにそのでかい顔のハリコ人形の中を見せてもらいました。それは頭からかぶるハリコ人形で自分と友達が
   一緒にかぶってもまだ余裕がある程の大きさです。顔の内部には目や口などが手で動かせるように紐が何本も垂れ下がってありまし。

22、おんぼろ三輪車
   友達は綺麗なキャラクター入りの三輪車を乗っていたけど、自分はゴミ箱に捨ててあった三輪車を拾っをてきたので、タイヤもヨレヨレで波を打っていて、
   座椅子も壊れている(今では綺麗な物も捨ててあり、贅沢なものです)三輪車で競争したりして、それでも結構面白く1日中遊んでいた記憶があります。

23、「ぼんくら」とからかう方こそぼんくら
   当時(小学1年)知能が遅れている同学生が居て、度々学校の帰りにその男の子を「ぼんくら ぼんくら」と言いながら、からかって追い掛け廻していたら、
   ある日その子が近くの家に飛び込み、その家のおばちゃんが出て来て自分らは凄く怒られました。その後は、その男の子をからかったか、
   どうかは覚えていません。今と比べて昔の子供の方が知能の遅れてる子や欠点や癖のある子に対してひどい事を言ったりしてたような気がします
  (自分だけかな?)今の子供がそういった意味では、そういう子にひどい言葉も使わず、意地悪もせず同調した学校生活をしているような気がします
   ・・・娘達の学校を参考にしてのコメントです。


24、いたずらでフグに噛まれ大騒ぎ
   生れは唐津の大鶴だと親から聞きました。大鶴での出来事の記憶は3〜4才だった頃かな、あんちゃん(自分とは12才離れていて、
   母の末の弟で彼が中学卒業するまで、兄弟のように一緒に暮らしていました。今は福岡に住んでいます)の魚釣りについて行きました。
   その時に釣ったフグが毒フグとも知らずに、いたずらしてたらフグにひとさし指を噛まれ、あわててあんちゃんに抱きかかえられ病院に行きました。

25、火の見やぐらと1円ハゲ
   これは記憶にはない出来事だけど、母から聞いた話で幼稚園の年頃に火の見やぐらから落ちて溝に頭を打ち後頭部に針を縫う大怪我をしました。
   この時に小指ほどの小さな丸いはげが出来ました。友達は「1円玉」と言ってました。今もそのトレードマークの丸いはげがあります。


26、火の玉遊びで怒られた
   夏になると、馬鹿な兄貴とその友達に誘われて(自分も興味あったけど)夜、神社に隠れて用意して持って来た(長い針金の先に布を巻いた物)
   その布にベンジンを染みらせ火をつけて揺らして人玉見たいに似せらせ、道を通る人をそれで驚かしていました。
  (特に小さい女の子が驚く)調子にのっていたら「あい、なんや火の玉か?」「んにゃ、火の玉に、すっぎんたおかしかな?」と言ったか、
   どうかは知りませんが、おんちゃん達がこちらに近づいて来たのであわてて逃げました。その後、捕まって怒られたか逃げ切ったかどうかは覚えていません。

27、放射能の雨が降る
   雨が降る日はなるべく外に出ないように言われました、何故ならこの頃は地上での核実験が国々で盛んに行われていて
   中国での核実験での雲が日本に来て、酸性の強い放射能の雨を降らせるからです。ですから外に出る時は傘をさしても必ず合羽か帽子をかぶります。
   そうしないと頭がハゲぼう頭になると言われていたからです。実際それでハゲぼう頭になったと言う人は聞いた事はありませんが?


28
子供の釣り人でにぎあう小川
   家の近くに堀川が(今、思うと田んぼに水を運ぶ為の川かも・・・江北町の新屋敷道にある川の様に)有って、其処には
   ザリガニや鮒、鯉、雷魚、なまず等、川に住む色々な生き物がいて、自分らはまだ小さかったので良くザリガニを釣りをしました。
   まず蛙を捕まえ思い切り地面に叩きつけます(少々残酷ですが)そしてのびた蛙を棒に垂らした糸の先に結びつけ(針ばりは要りません)餌にします。
   そしてザリガニが1匹釣れたら、そのザリガニの甲羅をむしりとり腹身を餌蛙と取り替え、新たな餌とします。
  (つまりザリガニの共食いです・・・でもこの方が良く釣れたのです)其処の川は真ん中橋げたと、
   川渕の葦が生えてるある1箇所が良く釣れるので、その場所は早い者勝ちでした。

29、北方町から江北町へと引越しの日
   引越しの日は淋しいかった。大鶴(大町)からの引越し時は歳も、もっと小さかったので大鶴の想い出は覚えてませんが、
   北方の時は想い出が分かる歳なので、それらとの友達と別れるのが辛かったのです。また引越し先の江北町(平山)がどんな所かも知らないし、
   どんな友達が居て仲良くなれるかという(自分はナイブなので)不安もあって心が重かった。そんな気持ちでいた引越しの日にトラック(ダンプカー)が来ました。
   近所の人達が手伝ってくれました。3−6組の光岡里美さんの兄貴も手伝に来てくれました。
   荷物も積み終えダンプに自分、2歳上の兄、1歳下の弟、光岡里美さんの兄貴、猟犬の丸(ポインター犬で呼び名です)が荷台に乗り込み北方町を後にしました。
   車が出発する時、見送る近所の人達に自分らは別れの手を振りましたが弟だけは猿の真似をしてました。
  (写真がHPに掲載・・・引っ越す意味が分かっていたのかな?)暗い気持ちで車は江北町へ向かいました。
   ただ兄弟(五人)が多かったのでそれが何よりの力強さで救いでした。
・・・・北方から越して来た同窓生が何人か居るけども、同じ心境だったかな?
HG正楷書体江北町編小学校時代)
1、
レールに耳あて聞いてると・・・やがて汽車が・・・
  2年か3年生の頃、学校帰りに中山了とその1つ上の兄と私3人で(場所は分かるけど地名が思い出せない・・・イイダ靴下から見える線路辺りかな?)
  レールに耳を当て汽車の音を聞いていたら汽笛がなったので、私はすぐ田んぼへ逃げて隠れたので良かったのですが、了の兄がぼーとして逃げもせず
  線路の脇に立っていたので、汽車が停車して当然の如く捕まりました。そのうち車掌がこちらを見て名前を呼ぶので了と私はしぶしぶ汽車まで戻り
  そのまま肥前山口の駅長室へ入り怒られ帰された。次の日は私と親と先生とで駅長室へ呼ばれ一筆書かされた覚えが有ります。
 (今なら大騒ぎで新聞沙汰になっていたかも)その後から了の兄の事を「ボーッとしてる」と何かに付け言ってあだ名となりました。・・・大反省してます。

2、眩しく見えた古賀君子さん
  5〜6年生の頃、古藤君だと思うけど古賀病院に古藤君の姉が盲腸で入院していたので学校の帰りに2人でお見舞いに行きました。
  その時古賀君子さんが病院の庭で友達何人かでゴム跳びをしてました。2人は恥しいのと、もう少し見てたいのとの気持ちで、
  そこを横目で見ながら玄関先まで歩きました。見舞いが終わり玄関を出ると彼女は居ませんでした。

3、鹿の口で溺れそうに
  5年の夏頃だったか。近くの堤(鹿の口)で溺れそうになりました。ここでの(鹿の口)出来事は沢山有ります、それだけ自分達の唯一遊び場として盛んだったのです。
  家の裏並びに住んでいた1つ上の先輩が居て(名前は覚えていません)その人と一緒に鹿の口へ泳ぎに行きました。この頃までは泳ぎも余り達者ではなく、
  せいぜいプールで5メートル泳げるのがやっとでした。ましてや堤では1〜2メートル辺りまで泳ぐのが精一杯でした。知っての通り堤はお椀状に深さが増しています、
  その事は当然自分達も知っています、なのでどんなに堤が危険かも分かっています。でもその日は先輩にどんな言葉でおだてられ、
  そうしようとしたのか忘れましたが暫く水遊びをしていたら、先輩が「そこまで泳いで見ろ」と枝切れを3メートル先へほおり投げました。
  自分はそろそろ泳ぎも上手くなりかけていたので簡単とばかりそこまで泳ぎ枝切れを掴み先輩に投げ返しました。
  そしたら今度は少し遠く5メートル先へ投げる、また自分はそれを取りにそこまで泳ぐ、この繰返しで先へ先へと投げて少しづつ距離が岸から遠くなる
  10メートルだったかな?投込まれ取りに泳ぐのですが掴みに行くまでは何とも思わなかったのですが、掴みユータンして岸を見ると「遠い」そう感じた瞬間に
  今さっきまで何ともなく泳いでいたのが、この瞬間から恐怖にかられ恐さを体中に感じ、頭がパニックに陥ると同時に泳ぎ方を忘れて、
  手をやたらばしゃばしゃと動かしているだけで足は動いてはなかった様な気がします。明らかに溺れていました。溺れながらも少しづつは岸へ近づいていました。
  先輩が慌てながら畑から長い竹(これは畑の柵に使う為に置いてあった)を持ちこちらに差し出しました。自分がその竹を掴むと先輩が岸まで引っ張り事を終えました
  ・・・命拾いしました。でもこれに懲りず教訓を生かして泳ぐ練習をして夏終わり頃には鹿の口の横を渡り泳げる程になりました。
  でも1つ下の弟は(中3年に腎臓で他界)中1年の頃、自分と同じ様に溺れそうになりました。
  でもそれが原因なのか自分とは反対にその後からは鹿の口の縦断までも出来てたのがせいぜい5メートル位までしか泳げなくなりました。
江北町編中学校時代)

1、今も印象に残る「小さなスナック」の曲
  2年生頃かな、友達の名前は覚えてないけど学校帰り古賀病院から石原町へ帰る道の左沿いの農家から
  パープルシャドウズの「小さなスナック」の曲が聞こ  えたので、そこへ行くと農家の納屋であんちゃん達がバンドの練習してました。
  珍しかったので暫く見てました。四角ごついマイクでした(当時のグループ  サウンズのマイクは大体それでした)


2、瓦屋の納屋で初めて見たあんちゃん達のエレキ練「ベンチャーズ」サウンド
  バンドの練習で思い出すのは、確か川原道にある瓦屋の同級生(あいはら君だっけ?)彼の中庭でもあんちゃん達が良くバンドの練習をしてるのを
  何度も見た事が有ります。その時は必ず寄って見せてもらいました。その頃はエレキブームが流行でベンチャーズの曲を練習してました。
  今、思えばドラムセットがちんけでした。

3、炭鉱幼稚園で見たあんちゃん達のエレキバンドパーティ
  もう1つ印象に残っているのは双葉町かな?私達は炭鉱幼稚園(保育園?)か言ってました。そこでクリスマスの日に中山了君の
  1番上の兄が近所のあんちゃ達(その中には平山町3班の谷口さん兄弟もメンバーで兄がドラム弟がリードギターで佐賀のエレキ大会で
  このグループは賞を貰った。ちなみに最後の演奏曲はキャラバンだそうです・・・余談でした)とパーティを幼稚園の講堂で
  今で言うライブをするというので中山兄弟4人(彼は六人兄弟です)と見に行きました。勿論ベンチャーズの曲で
  あんちゃんや姉ちゃん達が踊り(モンキーダンス)まくり、大はしゃぎの光景にあ然としましたが、おかげで始めの緊張が取れました。
  私達を見て皆、親切で接してくれました。「二人の銀座」の曲が印象的でした。・・・当時は幼稚園も開放的で人情があって今と大違い

4、学校をノウソン(学校をサボる事)した日
  炭鉱幼稚園の園庭の外に細い崖道があります(よく崖登りをしては垣根を越え幼稚園で遊びました)。
  また崖下にもでこぼこ坂の車道が有り左方下りは日の出町へ右方上りは双葉町へ行く道です。その崖下の車道沿い下に
  地域のゴミを回収して燃やす場所があります。ここで色々な物を拾ったりしました。叉ノウソン(学校をサボる事)した時は
  建物(小さい)に上がりグランド(日の出町の上にある)を眺めたりしてました。この日はグランドで、
  どこかのあんちゃんがバイク(見たところホンダバイク)でウイリー乗りの練習をしてました。


5、テレビ「レ・ガールズ」は皆のアイドル
   この頃テレビでは「レ・ガールズ」と言う番組があって、そうです一躍有名になったトッポジージョ(声は山崎?)番組の終わりに出てくる人形です。
   これは西野バレー団(今で言うとモーニング娘・・・実力違いはあるけど)が出演している番組です。友達の前田武彦は奈美悦子(最近バラエティ番組に出て来ます)で、
   笹野昭八は原?(名前は忘れた)で山路正治は金井克子で自分は由美かおるでした。途中、江美早苗に乗り換えようかな?と思っている時に番組が終了しました。
   由美かおるのシングルレコードは16枚持っています。どういう訳かLPが発売されて無かった。その由美かおるを久しぶりにそれも本人を見たのは、
   バンドしてる時(20歳頃)新宿のスタッセビル(今はない雑居ビル)の3階のクラブに自分達バンドが1か月契約の箱で演奏してる時、
   由美かおるがショータイムとして入り歌い踊りを始めた10分過ぎ頃に突然停電するトラブルがあり暫く電気がつかなかった。それに気分を悪くした楽屋裏では、
   ふて腐れ顔でショータイムを続ける辞めるかでスタッフと揉めていたけど結局は時間遅れでショータイムを続行しました。
   その時こんな我侭な所(兵噛むシャンと同じ)があるのかとガッカリあいました。・・・(余談でした)

6、中学体育館で見た由美かおるの映画
   由美かおるで思い出しました。 体育館でよく映画をやってくれました。日蓮(主演:萬屋金之助・・・この頃は中村金之助)、大魔神、ゴジラ等の上映がありました。
   ある日、由美かおる主演で弟役が逗子とんぼ(漢字を忘れた)かな?「銀のブーツ」見た時です。その上映しているフィルムがほしくてポケットに小刀を持ってました
  (今、これを持っていると大変です)チャンスがあれば置いてあるフィルムを切ろうかと映写機の周りに目を配っていて映画を楽しんで見る気持ちでは有りませんでした。
   物語りも半ば頃になるとあせってきました(もう2度とここで、この映画を上映しないと思っていたからです) 天の助けがきました。(見たもの何人かは覚えているかな?
   途中フィルムが切れた事)そうです。この時とばかり映写機へ近づきその周りを見ると、なんと、おんちゃんが直す為に裁断したフィルムが床に落ちてました。
   自分はドキドキしながら、おんちゃんが映写機につないだフィルムをかけている時、こっそりとポケットに入れて後ろへ行きました。
   映画が終わり体育館の外でそのフィルムを見たら由美かおるが家でお父さんに怒られ2回に上がる階段の所でしょげている場面が
   同じシーン6枚で写ってあるフィルムでした。由美かおるが写っていたフィルムだったので大感激でした。いつもの友達に見せて自慢しました。
   ・・・(でも今考えると、裁断したフィルムは多分捨てるから、おんちゃんに言えばくれたかもね)


6、鹿の口は皆の海水浴場
  平山と岳の間に鹿の口という(何でこの名前が付いたか歴史を見ないとわからないけど?)堤があります。
  夏休みは海水浴見たいに近所の人でにぎあいます(本当は遊泳禁止)だけど大人も幼児もここで泳いだりして遊んでいます。
  馬鹿なおんちゃんはブラチン(この意味を分かる人だけ分かってくんしゃい)で泳いでいます。自分も友達と林で遊んでいて余り暑く家に帰り
  海水パンツを持って来るのが面倒で、さるまたを濡らしたくない時は馬鹿なおんちゃんの真似してブラチンで泳いだ事もしばしば有ります。
  ところで「鹿の口」名前の由来は何の意味かな?・・・分かる人


、鹿の口に先生が見廻り
  
前にも話をした様にここは遊泳禁止なので先生が時々見廻りに来ます。大体はおんちゃんやあんちゃん達が先生が来たら教えてくれます。
  先生が来ると普段着の時は脱いだ服はそのままにして(学生だと分からないから)見つからないように林や畑のやぶに逃げて隠れますが、
  たまに学生服で来て脱いだ時は学生服も見つかるとまずいので学生服を頭にのせ岸添えに身をひそめ、その場所から遠くへ移動して
  隠れた事も何回か有ります。遥山先生がよく見廻りに来てた、ついで前田先生だった。二人ともこわかった先生です

8、ねずみ花火
と隣の親父

  隣の家(中山了君)と自分の家の間に一軒分位の広場があり、中2年の夏頃だったか?その広場で了君とねずみ花火で遊んでいました。
  その遊びとはねずみ花火を手で持ち火を付けると同時に上に投げ放すとシュルシュルと空中で円を描き最後にバーンとカンシャク玉が
  鳴り破けた紙がパラパラと落ちて降る。これが面白くて少し危ないけど遊んでいました。
  その何発目かの1つが隣の便所の窓から入り「あっ」と思ったと同時に「あちち、あちち」続いて
 「こらーだいがこがんとこで花火をしょっとか?」の声・・・時はすでに遅しで、中に隣の親父さんがウンチをしている最中だった。
  その後便所からバーンとカンシャク玉の音。逃げようにも隣の了君と一緒なのでどうせ後でばれるからと「まずい」だけの心持ちで
  黙って便所の窓を見つつ立ってました。窓からは了君の親父が恐い顔でこちろを睨んでいました。その後は言うまでもありません。
  前と同じパターンで了君の親父に怒鳴られ、家では親父からビンタンを食らわされ・・・・そぎゃーんしても了君の
  親父「だいがやった」の問いに了君「雄次が」は、なかやろうもん?今考えてもどっちがやったとがそがん事になったか良く覚えとらん
  ・・・ばってん、そがん時は、お互いの責任やっけん、二人して黙とらんば、いかんじゃ違うかにゃ
  ・・・自分だけ、にぎゅ(逃る)とは、ひけしかたい(卑怯)・・・


9、中学最後の夏休みのキャンプ・・・もどき?*キャンプ地は仲間の隠れ地(多分)
  当時のイメージでの地形ですが・・・平山から白木へ登り着きT字路にぶつかった道を右に歩くとまた緩やかな下り坂があり
  右手はスイカやメロンや三太郎、少し遠くにみかん畑があり。左側は林になっています、そして林の奥には隠れ地があるのです。
  今日はそこにキャンプの為に来たのです。この場所は栗の木、しいの木、柿木などがあって先輩達が偶然に見つけたのを山路正治君が教わり、
  そのあと彼と一緒にここへ甘柿を採りに来て、今度の夏にキャンプしようと決めていたのです。ここは以前(当時でも25〜30年前)
  民家が有ったそうです。キャンプと言っても持って来た物を言うと、鍋、はんご、マッチ、カレー、肉を除きカレーに入れる具、
  米、マンガ本、小刀(いつも所持)、果物ナイフ、手のこぎり、お菓子、懐中電灯、お椀、ござ、タオルかけ、
  それに自分が持って来た3畳位のカヤ(テントの代わり)、マァこの程度です。
  来た者は自分と前田武彦、笹野昭八、江口渡、2班に居た後輩、山路正治です。水は持って来ません、湧き水から引かれたパイプが有り
  そこの出口からジョロジョロと水が落ちているだけですが飲めるか飲めないか考える事無く飲んで見て「上手い」これも以前実証済みなのです。
  早速、適当場所を見つけござを敷きカヤを張り終えると周りを探検、大人な身長位の古びたお地蔵さんが3〜4体有りました。
  水のパイプは小さなお地蔵さんの足元辺りから出てました。さすがにここは涼しい場所です。遊び廻ってもさほど汗が出ない。

*夕食後のデザートは畑に有り
 そうこうしてる内に薄暗くなって来たので、「もう夕方の6時頃だろう」となり夕飯の仕度をしました。
 林の中は陽が余り差し込まないので暗くなるのが早いのです。時計など誰一人持って来ないので、と云うより持ってなかった。
 だから時間は分かりません、皆の適当な意見の一致でそう言う事になるのです。一人一人が適当に準備に掛かるが自然に当番決まり、
 ご飯が出来上がる。カレーは前田武彦と1つ下で2班に居た後輩が作り、はんごは笹野昭八と江口渡、その他の雑用は自分と山路正治だった様な
 ・・・こんな不陰気でのご飯は本当に上手かった。皆がお代わりしたけど、無くなるのが早い。食べ終えた時には、もう辺りも真っ暗、
 懐中電灯を照らし適当に片付け、これからデザートを食べなきゃ。勿論、果物など誰も持って来ません、
 これからそれを採りに行くのに都合が良い時間なのです。と云うのは前にも云った様に、道を挟んで向かい側は果物畑なので
 取って食べない訳にはいきません、自分と前田武彦と山路正治と1つ下で2班に居た後輩の4人で行きました、
 懐中電灯を自分と前田武彦が持ち林を登り道の向い側の果物畑へと入りました。勿論、黙って取る様な事はしません、
 大きな声で「貰います」と云って頂だきました。どうせ仲間以外は誰にも聞こえないので、
 大きいスイカ2個とメロン3個と三太郎10個位とカシ瓜(黄色い瓜)4個ときゅうり6個位を頂きました。これだけあれば人数分は足ります。
 今日と明日だけの食べる分があれば良いので欲を持って沢山は取りません。やはり何処かしら罪悪感があるし礼儀正しいのもあるので、
 付け加えてお金の代わりに有機栽培の根源の大地に自己製肥料を3人で報酬(山路正治は出なかった様で)をして来たので、
 これで精算したのと同じです。それらの果物を服に包んで叉林の奥の隠れ地(多分)へ降りて行きましたが、
 途中で道に迷いキャンプ地が何処に有るのか分からなくなり、仕方なく「何処におーと」声を出しました。
「ここたい」キャンプ地からの返事があり、一安心・・・声の方向は何の事はない、すぐ斜め20メートル程の所でした。
 テントに着くとじゃなく正確に言うとカヤだけど、果物を湧き水で冷やし食べました残りは明日の分です。
 それにしても林といってもヤブが生えてる林なので、今思っても夜そこを歩いてマムシに噛まれなくて良かった。(救急品など所持して無かったので)

*幽霊話と満天星の後はカヤに火がつき
 腹も満足になり、その後はべチャべチャと会話タイムに入ります。「だいがすいとうや」とか「最後の夏休みだな」など一般的な話です。
 次第に時間が経つにつれ、いつの間にか、こういう場所に持って来いの定番の幽霊の話になりました。
 自分は内心「嫌だなー」と思ってましたが、そこは顔に出す訳にも行かないし、ましてや態度になんて出せない
「なんや、そんな話くらい」の平然を装い皆に合わせていました。と言うのは皆が平気そうだったからです。(本当かな?)
 特に1年下で2班の後輩は「馬鹿馬 鹿しい」と云わんばかりの顔でした。怪談話はどんどん盛り上がります。
 何処何処に出るとか誰々が見たとか誰々に聞いたとかで皆の緊張も高まってきました。自分が冗談で「あそこ! 
 ウワッ」と叫んでお地蔵さんの方を指差してカヤに入りました。それを合図に皆も一斉に「ウワッー」と声を上げてカヤに入りました。
 冗談で発した自分がその皆の声で本当に怖くなりました。皆がカヤの真中に陣取ろうと焦ってぐるぐるこねてる団子状態
(この心境、分かるよね)仕方がないのでじゃんけんをする事に、この時ほど負けたくないとじゃんけんに力が入ったのもないです。
 結局は自分が一番負けたので端の方へ、それも端は端でもお地蔵さん側の方です。「嫌だな」と思いながら横になり寝る事に、
 静かにしてると虫の音を始め周りの小さな音などあらゆる音が耳に入ります、なにせ山の中ですから車や人々の騒音など一切聞こえません。
 上を見るとカヤですので夜空がはっきりと透けて見え満天星が宝石の様でそれが落ちて来るかの様でした(大げさじゃ無く普段に見てるより
 本当にそうでした)暫くするとカヤの中からウーーンと蚊の音が聞こえて来て誰かが刺されたらしくかゆがっていました。
 またウーーンと蚊の音がするのでそれが気になり眠れないので皆を起して懐中電灯で蚊を探しました。
 見つけると自分が1年下で2班の後輩に「カヤは燃えんけん火で蚊を焼くぎんたよか」と云てろうそく(アッそうだ、
 これも持って来たんだ)を渡しました。蚊に火を近づけるとカヤに火がつきカヤ一面に火が走りました。
「うわー」と皆が叫ぶのとほぼ同時に火はカヤの表面を走っただけですぐ消えました。びっくりしましたが、やはりカヤは燃えなかった様です。
 あくる朝、カヤを見ましたが焼けた様子もありません。蚊取線香を持って来たのを前田武彦が思い出して
 皿の上に蚊取線香を置きカヤの中は危ないので外に左右に2つ置きこの騒動は終わりまた。

*この時の、お地蔵さんの存在は・・・
 一安心してまた横になり寝る事に、だけど自分は眠れません、さっきの怪談話が頭から離れずそれにお地蔵さんがいる方の端、
 そしてさっき話した様にはっきりと透けているカヤなので真っ暗の中でもカヤの中から外が良く見えます。
 という事は外からもこちらが見える筈、テントなら中側と外側がお互い見えないので外と中の区別がはっきりしていて落ち着いて良いが、
 カヤはそうでないから夜になるとその区別が一段と分からなくなり外で寝てる様な錯覚を起しそうで少し不安でした。
 でもそれは大した問題じゃないけれど、もし外側から見えるとなれば幽霊からも自分達が見える、
 その時点では自分達と云うよりは自分が幽霊に見つかってしまうと思う考えでした。多分、皆は寝て居るのに自分だけ眠れないで起きているので
 孤立的な妄想からの心理で私だけを分かって幽霊が近づいて来るとそう考えたと思います。幽霊に見つかる見つからないと考えるのは
 子供の独特の発想かも知れませんが・・・でも今もこれに似た境遇に有っては思う事も有るけれど
 ・・・眼を開けたり閉じたりあっち向いたりこっち向いたり、それにお地蔵さんが気になり恐いさ見たさで時々、
 見てはホッとして眼を閉じ、こんな調子で中々眠れません。その内に小便をしたくなったので一人づつ揺さぶり聞きました。
 誰か忘れたけれど「ずっ」と云って起きたので二人でお地蔵さんとは反対の方で用をすましました。その後も眠れないままのウトウト状態でした。

*夜明けが待遠しい長い時間
 暫くして眼を開けると林の間からの空は薄明るく夜明けの様に見えたので、皆を起して「もう6時頃やろう、ご飯ば作ろう」となり、
 はんごを炊きました。朝もカレーです。誰が炊いたか覚えていないけど、はんごは2箇所で炊きその1つが「ごっちん炊き」でした。
 ご飯も終わり今日は何の遊びしようかとあれこれ話してましたが、話が尽きても一向に周りが明るくなりません。仕方なく、
 またカヤの中に入り眠りました。でも今度は周りが薄明るいので先程の様に恐くはなく安心して寝れました。
 上に掛ける物は皆1枚多く持って来た服ですので明け方は寒かった。どの位経ったか眼を開けると鳥やセミの声が耳に入りました。
 今思うともしかして最初起きた時間は朝の4時頃では無かったかな?なにせ時計が無いし、大人と違いこの時間帯の
 明け方に家を出る事が無いので明け方の明るさの感覚も無い、ましてや林の中の空は明るく見えるのでそう思って勘違いしたのかもしれない、
 本当に林の中は陽が射さないせいなのか中々明るくならない。
原田健二君や福島一彦君の様にボーイスカウト
(リッチです)だったら経験も有るので、この位の事は分かるだろうけど。

*多久の小川で昼のおかず捕り
とお地蔵さんに感謝
 また、起きてご飯を食べました。もうカレーは無いので塩とご飯だけで
 ・・・昨日は気が付かなかったけど、お地蔵さんの足元にお金が置いてありました。1円、5円、10円、50銭も何枚かありました。
 幾ら自分達もこのお金は罰が当たるからと思い取りませんでした。誰か知らないけれど厚い信仰心を持った人がお供えたかと思いますが
 ・・・林を登り道へ出て白木と反対の花祭りへ降りて行きました、そこに小さな川がありハヤとか、ヤマブキとかタニシとか小鮒もいて、
 それを捕まえるのです。勿論、昼ご飯のおかずにする為です。案の状いました。程々に捕れました。捕った魚はその場で、
 お腹を裂き腸を川で洗いました。(自分が見た多久の感想は田んぼに果物畑に野菜畑にそれと山ばかりの田舎でした)
 戻ると洗って来た魚をタニシも合わせ、もう一度湧き水で丁寧に洗い、鍋の上で塩を掛けて焼き、焼立てを食べる「上手い」
 腹が減っていた為か知りませんが「美味しかった」・・・その後はどうしたか忘れました。
 多分適当にまた周りで遊んできちんと片付けて帰りました。きちんと片付けた訳は自分達がマナーを持っているとは思えないので
 多分お地蔵さんが居たのでやはりそうしなければ罰が当たると思いそうさせたのではないかと思います。
 ・・・話がそれますが、罰が当たると言う事も違う意味でも大切かな特に今の世の中はそれが軽薄してるので
 悪い事も陰険的になりつつも有りまたは過ぎているのでは・・・
*現在は花祭りゴルフ場になっていますがかろうじて残された左側(白木から見て)の林の中がそこです。(*山路正治君の談話



同窓生に関するお知らせなどを掲載します
江北小中同窓会を開催決定

日時:平成25年8月10日(土)
場所:佐賀市 グランデ・はがくれ
http://www.grande-hagakure.com/
同窓生も人生歩んで60年、還暦の60歳となりました。「還暦 おめでとう!」とお互いが労い・・・
還暦祝福も込めた。歓喜溢れる同窓会にしたいと企画しています。

開催時間や会費・段取り・企画等などはこれから順次決めて行きます。決まり次第、その都度お知らせ致します。
スタッフも募集中
ご協力出来る方は北島君まで連絡して下さい


もう一度8.9準備会
広報からのお知らせ

 平成15年05月28日付
決定事項:
幹事の考えている案
12時30分駅南口集合
@バスにて町内思い出の地めぐり A14時小学校タイムカプセルにて記念セレモニー、その後武雄センチュリーホテルへ
B16時受付 C17時同窓会開会 D歌謡ショウ Eバンド演奏 Fビデオ映写 GフォークダンスH21時閉会 二次会へ
*この案はまず変更ないでしょう。
同窓会の会費
振込先:加入者払込局、加入者払出局  牛津 郵便局
口座番号:01760-4-103556
口座名称:北島 洋一
振込金額:男子.8000円、 
女子6000円
※二次会カラオケ貸切一人2500円、とまり朝食付1泊5000円は各自で用意
同窓生メンバー急募

九州で開催される大同窓会での楽しいひとときをより一層盛り上げる為、同窓生バンド結成を計画しています。
演奏はその日だけです。楽器演奏に自信ある者は、連絡下さい。
必須メンバー:
 キーボード又はピアノ、 ベース・ギター、
 サイドギター又はリズムギター

その他:飛入り大歓迎

ここでは、バンド演奏曲、リクエストによっては生オケもする予定です。
主な曲は60〜80年代のポップス・歌謡曲などです。

決定メンバー: HPのTOPに掲載してあります。
同窓会バンド演奏

同窓会1次会演奏(約30分間)曲順
@ベンチャーズ 6曲:ウォーク ドント ラン、ダイヤモンドヘッド、クルーエルシー、雨の御堂筋、 京都の恋、パイプライン
A福岡・小野さんデュエット 2曲:恋のバカンス、恋のフーガ
同窓会2次会演奏(生オケ約1時〜1時間30分位)曲順不同
BGS 8曲:青い鳥、エメラルドの伝説、長い髪の少女、ガールフレンド、君に会いたい 神様お願い、好きさ 好きさ 好きさ、モナリザの微笑み
C女性 7曲:虹色の恋、雨の御堂筋、京都の恋、恋のハレルヤ、雲にのりたい 、恋のバカンス、恋のフーガ
Dデュエット 2曲:二人の銀座、花嫁
Eグループ 4曲:思い出の渚、ブルーシャトゥ(男性軍) / 真赤な太陽、恋の季節(女性軍)
F全員合唱 2曲:涙君さようなら、明日があるさ
予備 5曲:花の首飾り、ヘイジュード、ビーナス、雨をみたかい、朝日のあたる家

※総て源曲通りの進行です

*残念ですが企画倒れに終わりました